人生や日常生活でヘコんだとき                                     >Home

私自身のこと

いろんな境遇の方がいる中で、私自身は両親とも健在ですし、今までも辛酸をなめるような苦労をしてきたと
いうわけでもなく、幸せに育てられてきました。楽観主義な性格とあわせて、人の話を聞く術に長けていたこと
もあり、今までは自分の話をするよりも人の話を聞く機会の方が多くそれがとても心地よい感じがしていました。

ですが、今回はまず、そんな私自身を少し振り返ってみたいと思います。

今では当たり前(?)の中学受験
私は愛知県日進市の生まれ、育ちで地元の小中学校をでて県立の高校へと進みました。途中、地元中学への
進学の時に私立中学を受験したのですが、残念ながら落ちてしまったことがあります。

今ほどは受験熱も過熱していなかったころだと思いますが、私も5年生くらいから毎週日曜日に名古屋では
予備校大手の河合塾へ通っていました。小学グリーンコースというコースでした。毎週日曜日の授業と折々の
模試なんかもあり、受験ムードが少しはあったと思うのですが、おそらく本人の自覚がさっぱり足りなかったの
でしょう、結果は不合格でした。狙いは愛知の名門男子校のT中学でした。
6年の同じクラスからもう一人、友達がT中学を受験し、彼は見事合格しました。
彼とは学校の帰り道によく歴史年号クイズなんかをしながら歩いた思い出があります。
担任の先生は、落ちた私をやさしくいたわり、励ましてくれました。もちろん両親も。
「落ちた」という事実が残りそのまま公立中学へ進んだのですが、特に誰かから冷やかされるというようなことも
なく、自分自身でも思ったほどショックが大きくなく、あっという間に中学生活になじんでいきました。

今から振り返っても、さほどショックでもなかったこと、すぐなじんでいったことを考えると、やぱり「受験するぞ!」
「合格するぞ!」という意識が弱く、その結果努力も足らず落ちるべくして落ちたんだろうなぁと思います。
両親や期待してくれた方々には申し訳ないのですが・・(今さらですね・・(汗))

でも、ひょっとしたらそう思うようになったのは、自分なりのヘコみからの回復術だったのかもしれません。
理由をはっきりさせて、こういうことだからしょうがないじゃないか、ヘコんだところでどうなるわけでもない、
というような心境に自然ともっていくことができたのですから。


妹のこと
長くなってしまうかもしれません。

私には2人の妹がいまして、そのうちの下の妹の話です。
彼女は5つ年下です。小さいころからいわゆるお兄ちゃん子で、親の言うことは聞かなくてもお兄ちゃんの言う
ことなら聞くというタイプなんです。そんな妹が中学、高校といった多感な年頃に尾崎豊にのめりこみ、彼の死に
とてつもない影響を受けたりもしていました。
きっかけは定かではありませんが、おそらく高校在学中か卒業をするころからか、薬物に依存し始めるように
なりました。彼女の場合は「ガス」です。ライターに注入する、一口コンロで使用するあの「ガス」です。
そうでない人々からはなかなか理解しにくいのですが、「ガス」を吸うといわゆるラリッた状態になり、行動、
会話などがすべて異常になります。思考能力もほとんどありません。
「ガス」を求めて徘徊し、手に入れるためには手段を選ばなくなります。

本人がなにより苦しいわけですが、薬物依存者を抱える家族の苦悩も筆舌に尽くしがたいものがあります。
彼女がそういう状態になったとき、私は実家の近くに住んでおりましたが、やがて海外転勤となり物理的にも
あまり顔を合わせることができなくなりました。彼女の面倒は、自然と両親が見ることになっていきます。

こういう事態になって私もいろんな勉強をしました。知識を仕入れたのです。
一口に薬物依存といってもとても範囲が広く程度の軽いものから重症のものまでさまざまあること、一度依存
し始めると抜けきるまで大変長い時間がかかること、ましてクリーン(依存を断った状態)になって社会へ復帰
できる人はわずかだということ、中には命を絶つ人も決して少なくないこと、等です。
そしてなにより大切なのは、クリーンになるには本人の意志だけではなく、家族をも含めた意識改革、治療が
必要だということでした。
また、薬物依存の治療を目的とした自助グループがあることもわかりました。両親も、本人と一緒にカウンセ
リングに通ったり、自助グループのミーティングに参加したりと、まさに家族ぐるみで治療にあたったのです。

薬物依存の治療は、大変息の長いものです。
処方薬もありますが、一時的なものですし、根源的な治療には本人も家族も、大きなエネルギーを必要とします。
通常は、クリーンな時期と依存の時期とを交互に繰り返して行き、次にクリーンのスパンが徐々に長くなっていき、
やがては依存しなくなるというのが治療の過程です。これを10年や15年というとても長い期間の中で取り組んで
いきます。

最初は、クリーンな時期が訪れると家族には「このままこの子は回復するんじゃないか」という期待感も生まれ
ますし、クリーンな時期はまったく正常ですので、その思いはなおさら強くなったりします。ですが、まもなく再び
依存の時期がやって来て、期待感はもろくも崩れ去り、家族には更なる精神的ダメージが残ります。

依存症状のひどいときには入院をすることもしばしばあります。
強制的に薬物から隔離して、クリーンな期間を長持ちさせるわけです。重症患者をみることによって、
「このままじゃだめだ」と内省させることにもなります。

私も実家の近くにいた時代や海外勤務からの一時帰国中に、何度か入院先へお見舞いに行きました。その時は
もちろんクリーンですので、いたって普通に会話もでき、これからはああしていきたい、こうしていきたい、と
将来の夢や治療方法を話し合ったりしたものです。

いずれにしても、そうした患者を抱える家族の精神的、肉体的、金銭的負担は相当なものです。特に母親はその
多くを担っていましたので、今度は母親のガス抜きも必要になり、機会のあるごとによく実家で話を聞いたりして
いました。

私の海外勤務が終わり、その後転職して東京で働き始めてしばらくたったころ、勤務中に母親から携帯へ
電話が入りました。

「○○が、死んだよ」

彼女は、その短い人生に幕を下ろしてしまいました。
病院から一時退院して街へ出かけている時に、突然心臓に負担がかかったようで、そのまま心停止し帰らぬ人と
なったのです。長年の薬物摂取の影響で体はボロボロでしたから、止むからぬことでした。


自分より先に娘が逝くという両親の気持ちは、推し量れるものではありません。
本人にとっても家族にとっても突然に訪れた幕引きに、ただただ呆然とするばかりでした。

近親者ばかりの密葬には、彼女を支えてくれた自助グループの仲間たちや昔からの友人たちが駆けつけて
くれました。

その中のある方が教えてくれました。
「お兄さんですよね。よく○○ちゃんが話してくれてたんですよ。自慢のお兄ちゃんだって」

涙が止まりませんでした。
あとになって残るのは後悔ばかり。
あの時、少し融通してもう一度病院へ寄れたのにどうしてそうしなかったんだろう・・
両親に押し付けてばかりでどうしてもっと積極的に関われなかったんだろう・・
自分があの子に残してあげられたものはなんだったんだろう・・
いくら涙を流しても、この現実をなかなか受け止めることができませんでした。それはいまだに続いています。
「○○はどうするのかな?」と人数の勘定にいれたり、生きていてそこにいるかのように思っていたり。
でも、もしかしたら、それは彼女の死を受け入れている結果なのかもしれません。とても自然な気持ちでいられて
いますので。

彼女の死によって知ったたくさんのことがあります。
彼女同様苦しんでいる人たちがまだまだいること。
その人たちを支えようと多くの自助グループの方々が活躍されていること。
こんなに苦しみながら生を送っている人たちがいるんだということ。

自分のことで言えば、
思っているだけではだめで、行動しないといけないこと
話をしっかり聞いてあげることはとても重要だということ
自分の存在がなにかの力になれることがあるということ

母親は今でも、その自助グループの方々との交流を持ち、苦しんでいる人たちの相談にものったりして
いるようです。

彼女の死を悲しむばかりではなく、彼女の生の証を大切にしていこう。
最近、そんなふうに思えるようになりました。

妹を支えてくれた仲間たち

幸いにも、妹には支えてくれる仲間たちがいました。
高校の友人、依存症から脱しようとともに闘ってきた仲間たち・・彼ら、彼女たちの存在が、どれほど大きかった
ことでしょう。

上でも書きましたが、依存症の人たちの自助グループというものがあります。
依存症にはさまざまな種類があり、おそらく治療法も異なると思うのですが、そういう人々が集うことによって、
回復への誓いを新たにし、少なくとも集っている間は依存を断つことが出来るという意味で、貴重な治療の場と
考えられています。
多くは、依存症を経験して克服した方が主宰をし、自らの経験を基にした活動を行っていると聞きます。
妹が通っていた当時の仲間でも、すでに亡くなっている人も少なくないというほど、克服するにはエネルギーを
必要としますし、時間もかかります。
彼らの活動の辛苦は相当なものだと思うのですが、ひたむきに頑張っている姿には心をうたれます。

妹の高校時代の友人の一人でうれしいニュースがありました。
2006年に、実家のちかくにある産婦人科で無事出産をされたのです。
この病院は家から徒歩すぐということもあり、出産後立ち寄って赤ちゃんの顔を見てきました。
すやすや眠っている様子を見ていると、母親である彼女の喜びが伝わってくるようです。
(ちなみにこの病院はまるでホテルのような素晴らしい施設でした!)

「死」という出来事のあとに訪れた「生」だからこそ、私もまるで我がことのようにうれしく感じたものです。

退院後も、赤ちゃんを抱いて実家へ遊びに来てくれるその友人や赤ちゃんが、私たちに与えてくれる
エネルギーはとても大きなものです。

「おにいちゃん」と呼んでくれる彼女とその赤ちゃんの行く末を、「兄」のごとく見守っていけたらいいなぁと思っています。


妹を支えてくれた仲間たち〜その後

最近、マスコミで度々登場しているのでご存知の方もいるかもしれないが、依存症の人たちの自助グループで
「ダルク」という団体があります。このダルクは日本各地に支部をもっており、中部圏では名古屋ダルク、
三重ダルク等々地域に根ざした活動を行っています。
かつては自分自身も依存症だったというリーダーやスタッフに支えられながら、ミーティングをかさね苦しみを
分かち合い、回復への思いを共有することで、病院での治療とはまた違った効果をあげているのです。
依存症患者たちにとっては、駆け込み寺的な存在といえるでしょう。

私の妹も、このダルクの方々には大変お世話になりました。
妹がなくなったのが 2004年3月31日 ですので、今年で、丸3年経ちます。
3年経つのですが、今でも顔を出してくれる心優しい仲間たちがいるのです。
妹の命日近くに、お花やお供えを持って遠方から訪ねてきてくれる方々に、母は旧友に再会したように喜び、
時を忘れて話し込んでいるようです。

ところが、一方で悲しい知らせもあります。
2006年3月の3回忌法要にも顔を出してくれた方が、先日お亡くなりになりました。
もう10年以上も依存を断ちクリーンな状態を保ってきていたのに、再び依存症に陥り、身体を蝕まれて亡くなったそうです。

妹を支えてくれた仲間たちのなかでも、もう何人もが他界しています。
ダルクに通いながらも、どうしても依存を断ち切れず泥沼へ落ちていってしまうのです。

依存症からの脱却というのは、本当に難しいのです。
10人いてしっかり更正できるのは1〜2人かもしれません。命を落とす人が3〜4人いるかもしれません。
それでも、その1〜2人を目指して、日々の苦しみからの脱却を目指して、ダルクの皆さんは活動しています。

私の母は、そんな現実を目の当たりにしているからこそ、時が経っても訪ねてきてくれる仲間たちには、
「あら、久しぶり」以上の感慨を持ってしまうのでしょう。大げさに言えば、「よし、まだ頑張って闘っているな」「生きているな」と
いう生の確認でもあるのです。

一人でも多くの依存症患者の方々が、社会復帰への道を歩んでいかれることを、心より応援しています。


妹を支えてくれた仲間たち〜さらにその後

また、訃報が届いてしまいました。
やはり、以前妹を支えてくれた方で、ビックラブクルーという薬物依存者たちの自立支援施設を運営されていた方です。
苦しんでいる人たちを支える側の代表である彼女が、どうして。。。と悲しみに沈んでしまいます。
彼女は、精力的に活動をしていました。HPをみてもその献身的な活動振りはよく伝わってきましたし、近々
自伝本の出版も決まっていたとのこと。
多くの人の支えであったであろう彼女が、どうして自ら命を絶たねばならなかったのか、伝え聞いた話だけでは
どうしても割り切れない思いが残ります。本人のみぞ知ることなのでしょうけれど。

ビックラブクルーという団体の目的は、とても崇高なもの。
妹のことがなかったら、私もこのような団体が活動していることなど、全く知らずに過ごしていたことだと思います。
私はかねてから、今の自分の出来ることには限りがあるけれど、いつか社会貢献したいと考えていました。
当初は、メセナ(芸術文化支援活動)にとても興味がありましたが、今では他の選択肢も随分あることがわかりました。
8月には出版されるという故人の本を読んで、一層の理解を深めようと思います。

心より、ご冥福をお祈りします。